
4.5 アジア通貨危機と日本経済への余波
目次
4.5.1 アジア発バブル崩壊の連鎖
1997年、バブル崩壊でズタボロになった日本経済が、ようやく立ち上がろうとした矢先に、隣の国々が派手に転んで火花を撒き散らした。それが、アジア通貨危機(アジア金融危機)である1。場所は違えど、火の粉は普通に飛んできた。なぜなら経済は、放っておいても“隣の家から延焼する設計”だからだ。
この危機の発端は、1997年7月、タイのバーツが急落したことに始まる。当時、東南アジア諸国は経済成長の真っ只中で、外国からの投資もガンガン流れ込んでいた。が、実態はバブル。不動産開発ラッシュ、過剰なドル建て借入、楽観的な成長神話――なんか、聞き覚えない? 日本と一緒じゃね? そう、あれの“アジア圏リメイク版”だ。
投機筋がバーツ売りを仕掛けると、たちまち為替相場は崩壊、通貨の価値は暴落、企業は外貨建ての債務を返せなくなり、株価は急落2。すると他の国々――インドネシア、マレーシア、韓国、フィリピンなども次々に巻き込まれて、地域一帯が金融パニック状態に突入した。
4.5.2 日本経済への衝撃とダブルパンチ
では、日本はどうだったのか? 直接的な巻き添えではなかったが、めちゃくちゃ飛沫は浴びた。日本企業はアジア各国に多く進出していたため、現地経済の混乱で取引が縮小し、資産価値が下落3。さらに、海外市場に向けて輸出していた企業は、相手国の通貨暴落により大打撃を受けた。つまり、買ってくれる相手が貧乏になったら、こっちの商売も死ぬという、輸出依存国の宿命を全力で味わう羽目になった。
加えて、日本の金融機関もこの混乱に巻き込まれた。アジア市場に投資していた銀行や証券会社は、突如として「融資先が崩壊しました」という現実に直面し、さらに自らのバランスシートにダメージを受ける。これは、バブル崩壊後の不良債権処理すら終わっていない段階で、もう一発パンチを喰らったようなもので、1997年の山一證券・拓銀破綻の年とピタリと重なるのは、偶然ではない4。むしろタイミングの悪さがもはや芸術的である。
4.5.3 共倒れ外交と“平成の冬眠モード”
この危機をきっかけに、国際金融市場では「ヘッジファンド警戒モード」が強まり5、日本国内でも「通貨の安定は自前で守らねばならぬ」という空気が高まった。
また、IMF(国際通貨基金)によるアジア諸国への融資には、日本も巨額の資金を拠出しており6、「援助はしてるのに、自分も瀕死」という、経済版・共倒れボランティアみたいな状況が続いた。
このアジア通貨危機を通じて、日本経済は何を学んだか? 一言で言えば、「他人のバブルは、距離があっても割れたら自分に飛んでくる」という地政学的経済教訓だった。そして、1990年代後半の日本は、すでに国内での成長エンジンを失っていたため、海外頼みだった部分が壊れたことで、さらに閉塞感が強まる結果となった。1997年は「国内もダメ、海外もダメ、政府も迷走中」という、トリプル役満の経済暗黒期だった。そして、アジア通貨危機はその最後の追い打ち。あとは、静かに平成の冬眠モードに突入するのみだった。
第五章:小泉改革と構造改革(2001〜2006)へ続く
参考:
戦後日本経済史 日本経済新聞社 (編集)
バブル:日本迷走の原点 永野 健二 (著)
平成はなぜ失敗したのか 「失われた30年」の分析 野口悠紀雄(著)
IMF改革と通貨危機の理論: アジア通貨危機の宿題 国宗 浩三 (著)
アジア通貨危機: その原因と対応の問題 国宗 浩三 (著)