毛沢東 革命と混沌に生きたカリスマの人生【第2部】

0
毛沢東 人物録【第2部】

はじめに

権力争いに負けた? じゃあ山へ逃げよう。
──そんなノリで始まった毛沢東のアウトロー生活だが、ここから彼は奇跡的なリカバリーを遂げる。

この記事では、1927年の上海クーデター後、毛沢東が追放され、ゲリラ生活に突入し、最終的に国家のトップに上り詰めるまでの道のりをたどる。
途中、山ごもりあり、大移動あり、ニセ協力あり──とカオスな展開満載だが、要するに一言でまとめると

「死ななかったやつが偉い」

そういう時代だったのである。

※毛沢東の「農作業嫌いな少年時代〜革命オタク開眼」までを知りたい人は、

👉第1部(0〜34歳編)はこちら

毛沢東 革命と混沌に生きたカリスマの人生【第1部】

毛沢東 革命と混沌に生きたカリスマの人生【第1部】

第1部はこちら

記事を読む

【1927〜1935年|34〜42歳】追放・逃亡・ゲリラ生活

1927年|上海クーデター→即アウトロー化(34歳)

蒋介石による共産党員大粛清(上海クーデター)で、毛沢東も完全に裏切られ枠に突入。
国共合作は崩壊し、共産党は非合法化&山へ逃亡モード
この時毛は、「都市の革命?無理無理、田舎行こ」と、革命マップを山岳に切り替える


1927年後半〜|井岡山へ逃亡、農村ベース戦術スタート(34〜35歳)

湖南と江西の境界にある井岡山(せいこうざん)に逃げ込み、農民武装勢力を組織。
ここからが毛沢東スタイルの本番:

  • 土地を再分配して農民の支持を獲得
  • 地主を粛清して革命ムードを醸成
  • 小規模ゲリラ戦で国民党軍を疲弊させる
  • 教育と宣伝で“銃と思想”の二刀流革命

つまり:「田舎でサバイバルしながら、民衆を教育して武装化し、反政府活動を続ける」

これがのちの「農村包囲都市戦略」の実地試験版。しかもまあまあうまくいく。


1929年〜|紅軍の組織化&江西ソビエト政府樹立(36〜38歳)

毛は軍隊を再編して、中国工農紅軍(のちの人民解放軍)を創設。
軍事と政治を統合した、まさに“思想戦士集団”を育成する。

その後、江西省瑞金を拠点に「中華ソビエト共和国臨時政府」を勝手に設立(1931年)。
公式には存在しないが、毛にとっては
国家のプロトタイプだった。

重要人物:

  • 朱徳(しゅとく):毛と並ぶ軍の大黒柱。戦術は堅実。
  • 周恩来:外交・組織運営のプロ。チーム毛の実務担当。

1933〜1934年|国民党の大包囲作戦→紅軍崩壊危機(40〜41歳)

蒋介石、ついにマジギレ。共産勢力を潰すべく大規模な「囲剿(いそう)作戦」を開始。
紅軍、物資不足と人員減少で徐々に追い詰められる。

中共内部でも、毛沢東のゲリラ戦重視の戦略に異論続出。
→ 一時、毛は指導部からパージ(除名)されかける。
あんなにがんばってたのに、まさかの田舎のカリスマ、干される。

注釈:囲剿(いそう)作戦

軍事用語。敵を包囲(囲)して、外へ逃げられないようにしながら、掃討(剿)する作戦のこと。つまり「袋のネズミ」状態にしてボコる戦法。特に中国近現代史(例:国民党が共産党に対して行った作戦)でよく使われた言葉。


1934〜1935年|長征スタート&神話誕生(41〜42歳)

1934年10月:紅軍は江西を捨てて、1万キロの大移動(長征)を開始。
目的:国民党の包囲を突破して、拠点を再構築するため。

この移動中、毛沢東はふたたびカリスマとして台頭。
1935年1月の遵義会議(じゅんぎかいぎ)1で、毛が実質的な軍・党のリーダーに復帰

長征中のカリスマ演出:

  • 「川を越えろ!」「山を越えろ!」 → 全部自分の手柄風に語られる
  • 「同志よ、理想のために死ね!」 → 自分はまあまあ安全なところにいる
  • 結果:生き残った兵士たちにとって毛は生存の象徴+神話的存在

軍事指導の失敗を総括 → 毛沢東がリーダーに復帰。ここから毛の独走が始まる。

【1935〜1945年|42〜52歳】奇跡の返り咲きと抗日協力編

1935年|長征完走 → 遵義会議でリーダー確定(42歳)

前章ラストで出た遵義会議で、毛沢東は紅軍の軍事指導者として返り咲き。
そこから長征を引っ張り、1935年10月に陝西省の延安へ到着。
はい、ここからが毛の神話モード本格始動。

延安は、その後10年にわたる「革命ごっこの拠点」兼「国家擬似実験室」になる。

延安時代(1935〜1945)

なにやってたの?

  • 共産党の組織再編&軍事再建
  • 毛沢東思想の体系化
  • 農民教育、識字運動、土地政策
  • 宣伝工作(演劇・新聞・スローガンのオンパレード)

要するに:
「俺が正しい」って空気を地道に10年かけて作った

これを“延安整風運動”と言
内部批判や自己批判を通じて、みんなに「やっぱ毛って正しいっすよね」と言わせる制度。地味に怖い。

1937年〜1945年|抗日戦争と“ニセ協力”

日本の中国侵略がエスカレートし、1937年に盧溝橋事件2で全面戦争へ。
ここで国民党と共産党は、再び手を組む(第二次国共合作)ことに。

一見協力モードだけど、実態はこれ:

  • 国民党 → 「共産党に出す武器は最小限な」
  • 共産党 → 「対日戦しながら、裏で支持拡大しとこ」

毛はこれをチャンスととらえ、
戦わずして信用を得る天才戦術を発動。

キモはここ:

  • 実際の戦闘 → 国民党軍がメイン
  • 宣伝と現地支配 → 共産党が地味に浸透

その結果:

  • 1945年、戦争が終わった時点で、共産党の勢力範囲は信じられないほど拡大していた

【1945〜1949年|52〜56歳】内戦ファイナルラウンド

1945年|抗日戦争終了 → 即、内戦スタンバイ(52歳)

1945年8月、日本の敗戦により抗日戦争(日中戦争)は終了。
「ようやく平和が来るのでは?」という国民の淡い希望は5秒で崩壊

国民党(蒋介石)と共産党(毛沢東)が「じゃあこの国、どっちが持ってく?」という話し合いに失敗し、すぐさま全面内戦モードへ移行。

話し合いどころか、会談中からもう険悪。毛と蒋が会った「重慶会談」は、ただのポーズ合戦

1946〜1949年|国共内戦:リアルバトルロワイヤル開幕

内戦は一見、国民党の方が有利。

  • 軍隊の数も多い(200万以上)
  • 装備はアメリカ製
  • 正規政府としての体裁もある

が。
共産党は…

  • 農村地帯の支持が爆増中(コツコツ活動がここで開花)
  • ゲリラ戦と心理戦の融合で消耗戦に強い
  • 国民党の腐敗とインフレで民心はダダ下がり

つまり:
「戦えば勝てる(国民党) vs 負けても支持される(共産党)」の構図。
そして徐々に、共産党が押し返していく。


1948年〜|逆転劇:三大決戦で国民党を粉砕

共産党が戦術・兵力・民心の三拍子で覚醒。
以下の三大決戦で国民党軍の主力をズタボロにする。

  1. 遼瀋(りょうしん)戦役:東北地方を制圧
  2. 淮海(わいかい)戦役:中原を奪取
  3. 平津(へいしん)戦役:北京&天津を落とす

これにより、蒋介石はついに「もうダメだわ」と認識。
1949年、彼は台湾に逃亡


1949年10月1日|中華人民共和国、爆誕(56歳)

毛沢東、北京の天安門で高らかに宣言:

「中華人民共和国、ここに成立!」

このとき、毛は革命の勝者→国家の主→歴史そのものへと変身。
彼の脳内ではすでに「俺が国家そのもの」という精神的ビッグバンが起こっていた。

第3部に続く

毛沢東 革命と混沌に生きたカリスマの人生【第3部】

毛沢東 革命と混沌に生きたカリスマの人生【第3部】

第3部はこちら

記事を読む

出典・参考:

  • 毛沢東伝 藤子不二雄(A) (著) 
  • よくわかる現代中国政治 川島 真 (著・編集), 小嶋華津子 (著・編集)
  • マオ―誰も知らなかった毛沢東(上・下) ユン チアン (著), J・ハリデイ (著)
  • 毛主席語録 毛沢東(著)

  1. 長征中に開かれた緊急会議。
  2. 1937年、日本と中国の武力衝突から始まった全面戦争のキックオフイベント。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です