
目次
年代(年齢) | 出来事 |
---|---|
1893年(0歳) | 湖南省韶山で誕生。農家出身。 |
1909年(15歳) | 東山書院で儒教教育。 |
1911年(17歳) | 辛亥革命に感化され一時軍隊へ。 |
1918年(25歳) | 師範学校卒業、北京大学図書館でバイト開始。 |
1919年(26歳) | 五四運動参加、『湘江評論』創刊。 |
1921年(28歳) | 中国共産党創設に参加。 |
1923〜1927年(30〜34歳) | 国共合作期、労働・農民運動に没頭。 |
1927年(34歳) | 上海クーデター、農村ゲリラ戦術へ転向。 |
1927年後半(34歳) | 井岡山で農村拠点作りスタート。 |
はじめに
中国近代史をブチ壊して再構築した男、毛沢東。
彼が一体どこから来て、どうしてあんな危ない思想と行動力を手に入れたのか——そこには、農村の“本好き少年”が、世界の理不尽にブチ切れながら成長していく壮大な“こじらせストーリー”があった。
このパートでは、0歳から34歳までの毛沢東の「人格形成」「革命オタク化」までを、時代背景とともにざっくり追いかける。
読めば、ただの“やらかし系偉人”じゃなかったことがわかる……かもしれない。
【1893〜1918年|0〜25歳】農村少年と“知の目覚め”
誕生と家族背景(1893年)
毛沢東は1893年12月26日、湖南省韶山の農村に生まれた。
家はそこそこ裕福な農家で、父・毛順生は勤勉で厳格、商売もうまいタイプ。母・文七妹は敬虔な仏教徒で、優しくも保守的な人物。つまり、典型的な“父:昭和、母:平成”家庭。
毛沢東少年は、そんな中で本と自然の中に癒しを見出していた。親の言うことはほとんど聞かず、「農作業?無理。俺は本読むんで」と堂々サボるタイプのガキだった。
読書中毒と学問への目覚め
10代前半から既に読書沼にどっぷり。初期は中国古典(四書五経とか)に夢中だったが、やがて西洋思想・歴史・軍事論にもハマり始める。
当時の中国は西洋列強の干渉でバッキバキにやられていたので、ナショナリズムに目覚める若者が多かった。毛もその一人。
彼は、「この国どうなってんだよ」とキレつつ、「俺が変えるしかない」みたいな“自意識過剰系男子”になっていく。
学歴ジプシー期(1909〜1918)
15歳から各地の学校を転々とする。
- 1909年:湖南省の東山書院で学ぶ(儒教メイン)
- 1911年:辛亥革命に感化され、一時的に軍隊入り
- その後:湖南省立師範学校(現・湖南大学)に入学し、教師を目指す
この間、ヨーロッパの自由主義思想や民主主義思想、アナーキズム、ナショナリズムに接し、脳内が完全に**「革命ワンチャン」**モードに切り替わる。
人格形成のカオスポイント
この時期、毛沢東の内面はかなり“こじらせ”ていた。
- 既存の儒教道徳→「古くさい」
- 西洋思想→「新しくて刺激的、でも中国流にしたい」
- 反権威・反親・反体制マインドが暴走気味
その結果、教育者という道を選びながらも、心の中では「革命しか勝たん」と確信していた。
【1918〜1927年|25〜34歳】革命オタク誕生期
1918年|北京大学でインテリデビュー(25歳)
毛沢東、湖南省立第一師範学校を卒業。普通なら教師になって平和に暮らすところを、「もっとデカいことがしたい」という中二病により北京へ。
そしてたどり着いたのが——北京大学の図書館員(※バイト)。
え?雑用?と思うかもしれないが、これは当時の毛にとって最高のポジションだった。
なぜなら:
- 学歴がなくても北京大学の超一流インテリ層の議論をナマで見聞きできる
- 李大釗(共産主義の伝道師)や陳独秀(『新青年』の編集長)といった革命思想の伝道師たちが普通に職場にいる
- しかも当時の北大は、新文化運動の最前線で、思想の火薬庫状態
つまり毛は、「掃除しながら革命思想を吸収する男」だった。彼にとっては図書館のホコリより、知の空気のほうが栄養価が高かった
この時期、彼はマルクス主義・ナショナリズム・アナーキズムなど、あらゆる思想に触れ、「俺にも何かできるかも」という革命家としての自意識が花開く。
もちろん、雑用としての実績は不明。
注釈:『新青年』とは?
『新青年』は1915年に陳独秀によって創刊された雑誌。
儒教をボロクソに叩き、西洋の民主主義・科学・平等思想を紹介するという、当時としてはめちゃくちゃ尖ったメディア。
若者よ、古い価値観をぶっ壊せ!というメッセージで、新文化運動の理論的バックボーンに。
注釈:新文化運動とは?
1910年代後半の中国で起こった知識人による思想改革運動。
「民主主義(デモクラシー)と科学(サイエンス)を中心に、旧来の儒教や封建制度を捨てよう!」という、いわば中国近代思想の再起動イベント。
北京大学がその中心地となり、毛沢東もこの中で火がついた革命クラスタの一員となっていく。
1919年〜|五四運動と初めての実地デモ活動(26歳)
1919年、「五四運動」が全国に広がる。中国の若者が「西洋列強ふざけんな」とガチギレしたナショナリズム系ムーブメント。
毛はこれを全力で支持。「知識だけじゃダメだ、俺も動く」と自ら湖南で新聞を発行、青年団体を組織。
🗞 『湘江評論』という雑誌を立ち上げて、政府批判をやりたい放題。
「筆で世界を変える」とか思ってるけど、筆じゃなくて火炎瓶を使う未来が待っているとはこの時まだ知らない。
注釈:五四運動とは?
1919年5月4日、北京で学生たちがデモを起こしたことに始まる反帝国主義・反封建運動。
きっかけはヴェルサイユ条約で、ドイツが支配していた山東半島の権益が日本に譲渡されることに決まった件。
中国人:「え、オレたちの土地が話し合いで他国に譲られるって何事?」
→ 全国で学生・市民が蜂起。
これは中国近代史における“市民が初めて声を上げた瞬間”として超重要。
思想的にも、新文化運動と結びついて民主・科学・民族主義が加速する起点になった。
注釈:『湘江評論』とは?
毛沢東が1919年に湖南で創刊した左派系雑誌。
ガチガチの政府批判、教育・社会制度の再編成、青年の役割など、当時の保守派が卒倒しそうなトピック満載。
彼の初期思想(平等主義、革命待望論)が濃厚に詰まっており、「毛沢東、文章だけはうまい説」を裏付ける名作。『湘江評論』創刊宣言とか面白い。
ちなみに発行後すぐに発禁処分くらって、毛本人も当局の監視対象に。初期から公安に愛されてる男。
1921年|中国共産党の創設(28歳)
1921年7月:第1回中国共産党大会が上海で開催。
毛沢東、湖南代表としてちゃっかり出席。
この頃は「地方の活動家代表」レベルで、中央での影響力はまだ小さめ。
とはいえ、彼の得意技=農民への革命教育&扇動が徐々に評価され始める。
ちなみに当時の中国共産党はわずか数十人。
1923〜1927年|国共合作と組織づくりオタク期(30〜34歳)
当時の中国は軍閥まみれ。まともな政権はどこにもない。
そこで、国民党(蒋介石たち)と共産党が一時的にタッグを組む「国共合作」開始。
毛はこの期間に以下のスキルを爆上げ:
- 労働運動の組織化(特に鉱山や鉄道労働者)
- 農民運動の拡大(農村での支持基盤づくり)
- プロパガンダ能力(ビラ撒きと演説の鬼)
注釈:国共合作とは?
「国共合作(こっきょうがっさく)」は、中国国民党(国)と中国共産党(共)による政治的“その場しのぎ同盟”のこと。
あくまで「共通の敵(軍閥と列強)を倒すために、とりあえず手を組もうぜ」という利害一致による期間限定ユニット。友情も信頼もゼロ。
注釈:国民党とは?
三民主義(民族・民権・民生)を掲げるナショナリズム系政党。なので国民党=一応「近代国家を作ろう」としてた勢力。でも民主主義というよりは「俺の言うことを聞け」になっていく悲しい運命。
1927年|上海クーデター&裏切られる(34歳)
蒋介石がブチギレて共産党員を大弾圧(上海クーデター)
→ 国共合作、秒で解散。
毛沢東も当然アウトローへ。
「都市部のプロレタリアート中心で革命とかムリじゃね?」と実感し、以降は農村中心戦略へ大シフト。これは中国革命におけるガチの路線転換。
「都会ダメ。田舎のほうが俺のホーム感ある」って、ただの人見知りかと思いきや、歴史を変える方向転換だった。
注釈:上海クーデター(1927年)
蒋介石が、国民党軍を使って上海の共産党員を一斉に粛清&虐殺した事件。共産党が労働者層に影響を広げすぎて、国民党内で「え、こいつら乗っ取る気じゃね?」という空気になった。この事件は、単なる「仲違い」じゃなくて、「革命ごっこ終了、ガチの内戦スタート」のトリガー。
注釈:プロレタリアート中心革命
マルクス主義の基本。「都市の労働者が団結して革命を起こす」って理論。
でも当時の中国では都市部の労働者なんてほんの一握り。全人口の80〜90%が地方農民。労働者が少なすぎて全然無理だった。
注釈:農村中心戦略(農村包囲都市戦略)
毛沢東の発明。マルクスの都市中心主義を「中国には合わん」と切り捨てて、農村から革命を起こす理論にシフト。実際、のちの「長征」「延安拠点」「人民解放軍」のベースになる発想がここで誕生。中国の現実に合ってた。
出典・参考:
- 毛沢東伝 藤子不二雄(A) (著)
- よくわかる現代中国政治 川島 真 (著・編集), 小嶋華津子 (著・編集)
- マオ―誰も知らなかった毛沢東(上・下) ユン チアン (著), J・ハリデイ (著)
- 毛主席語録 毛沢東(著)