
目次
- はじめに
- 【1949〜1957年|56〜64歳】建国後のハネムーン期
- 【1958〜1961年|64〜67歳】大躍進=大破壊モード
- 【1962〜1965年|68〜71歳】沈黙と次の狂気の準備期間
- 【1966〜1976年|72〜82歳】文化大革命=リアル地獄絵図
- 【1976年|82歳】終幕と“教祖の殿堂入り”
年代(年齢) | 出来事 |
---|---|
1949年10月1日(56歳) | 中華人民共和国建国を宣言。 |
1950年(57歳) | 朝鮮戦争参戦。 |
1953〜1957年(60〜64歳) | 第一次五カ年計画実施、工業化促進。 |
1958年(64歳) | 大躍進政策スタート。 |
1959〜1961年(65〜67歳) | 大飢饉(三年困難時期)発生。 |
1962年(68歳) | 表舞台から一時フェードアウト。 |
1965年(71歳) | 文化大革命の準備開始。 |
1966年(72歳) | 文化大革命発動、紅衛兵動員。 |
1969年(76歳) | 権力集中、ほぼ“毛神”。 |
1976年9月9日(82歳) | 死去。革命ジェットコースター終了。 |
はじめに
革命の勝者となった毛沢東は、国家の頂点に立った瞬間から「次は国づくりだ」と動き出す。
──しかし、その国づくりは、常識の設計図をぶち破る壮絶な実験だった。
土地改革、大躍進政策、文化大革命……。
“人民のため”の名のもとに行われた数々の政策は、人々を救ったと同時に、地獄へも突き落とすことになる。
この記事では、1949年の建国から1976年の死去まで、毛沢東の国家運営という名のリアル社会実験をたどる。
途中、何度も「これヤバくない?」という瞬間が訪れるが、毛は止まらない。
なぜなら、「俺がやるって言ったから」──ただそれだけで、歴史が動いていったからだ。
※毛沢東の少年時代から革命成功までの道のりをまだ読んでない人は、
👉第1部(0〜34歳編)はこちら
👉第2部(34〜56歳編)はこちら
【1949〜1957年|56〜64歳】建国後のハネムーン期
1949年10月|中華人民共和国、開幕(56歳)
毛沢東が北京の天安門で「人民の国、爆誕しました」と堂々宣言。
この瞬間から、彼は革命家ではなく“国家そのもの”の顔に。
初期の目的は明確で、
- 戦争で疲弊した国の再建
- 不平等な土地制度の是正
- 国民の生活を安定させる
…っていう、割と真面目で正統派なスタート。
1950〜1953年|土地改革&戦争モード継続
土地改革:
- 地主階級の土地を没収して農民に分配。
- 農村では「地主を吊るせ」キャンペーンが展開され、暴力的な粛清も多数発生。
朝鮮戦争(1950年〜):
- アメリカとガチンコしたくてウズウズしてた毛は、北朝鮮の要請を受けて人民志願軍を派兵。
- 「新しい中国、すぐ戦争」みたいなスピード感。
国民的には:
「建国したばかりなのにもう出兵!?はやない!?」という困惑もあった。
1953〜1957年|第1次五カ年計画とソ連シミュレーションタイム
- 工業化を推進 → ソ連モデルを全力で導入(≒“答えを見ながら書いた政策”)
- 国有化・計画経済・鉄鋼生産など、「未来志向」っぽい雰囲気を醸し出す
成果はあった:
- 都市部では生活水準が一時向上
- 交通・通信インフラの整備も進む
- 「この国、ちょっとまともになってきた…かも?」という希望
が、同時にこんな兆候も:
- 批判を許さない空気が徐々に強化
- 個人崇拝の芽がチラホラ(「毛主席万歳」的なのが出始める)
- ソ連との蜜月が微妙にズレていく
【1958〜1961年|64〜67歳】大躍進=大破壊モード
1958年|大躍進政策スタート(64歳)
毛沢東、突如思いついた超高速モダン国家計画をブチ上げる。
目標は:
- アメリカ&イギリスを10年で追い越す(無謀)
- 農業&工業を同時に伸ばす(欲張り)
- 人民の力で奇跡を起こす(精神論)
この超ド級キャンペーンが「大躍進(Great Leap Forward)」1。
中身はだいたいこんな感じ:
- 人民公社化:農村を大規模集団に再編成 → 個人の土地・生活完全消滅
- 鉄鋼ノルマ地獄:村ごとに「裏庭製鉄所」設置 → 中身はただのスクラップ工場
- 食糧生産水増し報告大会:数字を盛るのが文化になる → 政府「おっ、生産多いじゃん」→ 全部徴発
結果:
農民に食料が回らず → 飢餓 → 数千万規模の餓死者発生
1959〜1961年|「大飢饉」という名の静かな地獄(65〜67歳)
歴史上の呼称は「三年困難時期」。
でも実態は:
- 田畑は荒れ果て
- 誰も働かない(だって死にかけてるから)
- 村が消える
- 食料を探して人が“動物化”するレベル
各種推定によると、2000〜4000万人が餓死。
はい、人類史でもトップクラスの政策起因による死者数を記録。すごいですね(皮肉)。
毛沢東、実はちょっと引く(でもやめない)
- 1959年:国防相・彭徳懐(ほうとくかい)が「これヤバくないっすか?」と忠告 → 粛清される
- 毛、ちょっとビビって「やばいかも…」とは思うも、
「でも俺のメンツあるし…」って理由でアクセル緩めない
結果、最終的には党内からも批判が高まり、
1961年、毛は経済政策の現場から一時撤退。
このあと数年間は“静かなる再評価期間”へ入る。いわゆる沈黙編。
【1962〜1965年|68〜71歳】沈黙と次の狂気の準備期間
1962年|毛、表舞台からフェードアウト(68歳)
大躍進の大失敗で、毛沢東への信頼がガクッと低下。
さすがに「まだ毛に任せるのは…ちょっと…」って空気になり、
現実派のリーダーたちが台頭:
- 劉少奇(りゅう・しょうき):国家主席。空気読める実務派。
- 鄧小平(とう・しょうへい):経済再建の現場監督。後に歴史を塗り替える男。
つまり、共産党の上層部が「毛さんにはちょっと休んでていただいて…」と優しく引退勧告。
毛:表面上は沈黙
内心:「ふーん…俺がいなくても国うまく回るんだ?へぇ〜……」(怒りゲージ上昇)
経済の再建、そして「常識」の復活
この時期の中国、実はちょっと回復してる。
- 集団農業 → ゆるやかに個人単位に戻す動き
- 経済:生産力が回復、インフレが緩和
- 都市も農村も:「やっとマトモな生活戻ってきた…」という希望の芽
だが、毛にとってはこれは“失敗の教訓”じゃなくて“革命がぬるくなった証拠”。
毛の脳内:「今こそ思想を鍛え直す時…」
沈黙している間、毛は何をしていたか?
ずっと本を読みながら怒ってた。
- 「革命精神が失われている!」
- 「このままだと共産党は腐る!」
- 「実務派が党を乗っ取ってるじゃん!」
つまり:もう一回ぶっ壊す準備を始めていた。
この間に、あの恐怖の書物が整えられていく。
そう…『毛主席語録』、通称:赤い本。
これが後に全国民の宗教アイテムになる。
地味に動く毛の“忠臣ズ”
沈黙してるように見えて、毛にはちゃんと腹心たちがいた。
そして彼らが「再起の布石」を地味に打ちまくる。
- 林彪(りんぴょう):軍の実力者。「毛こそ軍神!」とゴリ押し。
- 江青(こうせい):毛の妻。文化芸術界を浄化する謎の動き(伏線)。
【1966〜1976年|72〜82歳】文化大革命=リアル地獄絵図
1966年|毛、ふたたび表舞台に降臨(72歳)
何年も沈黙してた毛沢東が、突如「革命まだ終わってねぇぞ!」と絶叫。
その名も:
文化大革命(ぶんか・だいかくめい)
目的:資本主義的・反革命的な要素を排除して、純粋な共産主義社会を実現する(という建前)
でも本音はこれ↓
「俺の言うこと聞かなかったやつ全員ぶっ潰す」
そうして10年間で国のあらゆる機能が壊れていく。
革命の尖兵=紅衛兵(こうえいへい)
毛が「若者よ!立ち上がれ!」と煽ったら、本当に立ち上がった。それが紅衛兵。
- 中高生〜大学生が武装化して紅衛兵に
- 学校・職場・街中で“思想チェック”開始
- 教師・知識人・幹部たちは公開リンチや拷問の対象に
知識=悪。伝統文化=封建の遺物。
…という理屈で、書物・歴史遺産・人間関係すら破壊対象。
四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)をぶっ壊せ運動、全国で発動。
実際に起きたこと
- 大量の人々が告発・粛清・下放(地方送り)2される
- 教育機関が崩壊、都市部の若者は「農村に行って思想鍛え直してこい」と放逐される
- 毛沢東語録(赤い本)を振りかざす宗教国家状態
- 政治的粛清:劉少奇→死刑レベルの粛清、鄧小平→干される、林彪→逃亡して飛行機墜落
国のトップすら信用されない、「疑心暗鬼による全員悪人時代」。
毛沢東、ほぼ神になる
この時期の毛はマジで神扱い。(でもだいたいカルト)
- 学校や劇場では「毛主席の偉大な指導に涙を!」みたいな茶番劇(妻江青作)が連日開催
- 毛の顔入りポスター、銅像、語録が信仰アイテム化
つまり、「思想を理由に人が死ぬし、でもみんな笑顔で“毛主席万歳”って叫んでる」
【1976年|82歳】終幕と“教祖の殿堂入り”
1976年9月9日|毛沢東、死亡(82歳)
中国という名の“革命ジェットコースター”を設計・運転・脱線させた毛沢東、82歳で死去。
国家は一瞬止まり、国民は一斉に「泣け」モードへ。
テレビは追悼番組、街には花と毛バッジ、空気は宗教イベント兼ショック療法状態。
裏で進む「後どうすんの?」会議
毛が去っていちばん困ったのは、
「この国、次誰が仕切るの?てか責任どうすんの?」という件。
で、毛が最期に残したとされる言葉がこちら:
「你办事,我放心(おまえがやるなら安心だ)」
→ 相手は華国鋒(か・こくほう)という、地味で忠実な官僚。
なんだその選び方。革命リーダーの最終ジャッジが“飲み会の幹事指名”みたいなテンション。
華国鋒:毛が選んだ“都合が良さそうな人”
- 元公安部長。まじめ。地味。忠誠度高め。
- つまり「自分の影を消さずに済む相手」として毛が気に入った。
- 一時的に国家主席・党主席を兼任。中華人民共和国の“第2毛沢東”扱いに(でも見た目は完全に臨時職員)
仕事は最初だけ頑張った:
- 四人組3を即逮捕 → みんな「おぉーやるじゃん」
- だが、そこまで。
- 政治力なし・改革意欲なし・カリスマ性ゼロの三重苦
結果:鄧小平が登場して数年で失脚コースへ直行。
毛の遺産:教祖化、でも後始末は他人任せ
- 毛沢東は「偉大なる革命の父」として教祖ポジに永久就職
- 歴史評価は後継者・鄧小平によって「7割成功、3割失敗」とかいう雑な配分でまとめられる
- 毛を正面から否定することはタブー。今でも天安門に顔がデカすぎるぐらい飾られてる
総括
毛沢東は死んだけど、その亡霊は国家に残った。
人生をかけて革命した結果、「偉人」と「反面教師」と「カルト教祖」の三役を同時にこなすレジェンドへ。
世界でもっとも矛盾した“偉大な人物”の一人として、中国史に永久ロックインされました。
出典・参考:
- 毛沢東伝 藤子不二雄(A) (著)
- よくわかる現代中国政治 川島 真 (著・編集), 小嶋華津子 (著・編集)
- マオ―誰も知らなかった毛沢東(上・下) ユン チアン (著), J・ハリデイ (著)
- 毛主席語録 毛沢東(著)