アメリカ合衆国とは? 概要と歴史【第1回】

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アメリカ合衆国のコラム・解説記事

目次

はじめに

アメリカ合衆国――この名前を聞いて、思い浮かぶのは何だろう。自由、平等、ハンバーガー、映画、銃、そして終わらないニュースの嵐。世界のリーダーを自称し、時に混乱の火種にもなるこの国は、一体どこから来て、どこへ向かっているのか。

第1回では、その巨大な存在感の根っこにある「歴史」に焦点を当てる。建国の理念から内戦、世界大戦、そして公民権運動まで、アメリカは常に理想と現実の間でぐらつきながら突き進んできた。

1. アメリカ合衆国の概要と歴史的背景

アメリカ合衆国(United States of America、通称USA)は、北アメリカ大陸中央部に広がる、50の州と1つの連邦区(首都ワシントンD.C.)1から成る巨大な連邦国家である。面積は約983万平方キロメートルで世界第4位、人口は3億3000万人を超える。英語を公用語とし、多様な民族、文化背景を持つ人々が奇跡的に(なんとか)共存している。

もともとは先住民の土地だったこの大陸に、15世紀末からヨーロッパ人がわらわらと押し寄せ、17世紀から18世紀にかけてイギリス、スペイン、フランス、オランダなどが好き放題に植民地を築いた。その中でもイギリス植民地は商売上手で急速に発展し、独自の経済圏を形成した。18世紀半ばには、自由と自治を求める声が高まり、最終的には「親離れ」ならぬ「帝国からの卒業式」こと独立運動へとつながった。

アメリカの歴史は、自由と平等を理想に掲げつつ、奴隷制度や先住民排除といった壮大な矛盾を横に積み上げながら進んできた。独立戦争、南北戦争、世界大戦、冷戦、公民権運動と、まるで世界のイベントカレンダーを一人で埋め尽くす勢いで歴史を刻み、今なお「超大国」という重たい名札をぶら下げながら生きている。

1-1. 独立戦争と建国の理念(1776年)

18世紀中頃、イギリス本国による過酷な課税と政治的支配に対し、13の植民地で不満が爆発した。特に有名なのが「代表なくして課税なし(No taxation without representation)」というスローガンだ。要は「口も出させないのにカネだけ取るな、あつかましい」というストレートな怒りである。

1775年、レキシントン・コンコードの戦いを皮切りに独立戦争が勃発。翌1776年7月4日、トーマス・ジェファーソンらが『独立宣言』を採択し、アメリカは高らかに「すべての人間は平等である」と宣言した(ただし、奴隷や女性についてはスルーする高度なダブルスタンダードを発動)。

独立戦争は8年に及び、フランスの支援もあって1783年のパリ条約で正式に独立が認められた。新生アメリカは1787年に憲法を制定し、強力な連邦政府と人民主権という、いかにも調整不可能そうなコンボに挑戦し始めた。

1-2. 南北戦争と国家統一の達成

19世紀前半、アメリカは領土拡大に邁進しつつ、北部の産業経済と南部のプランテーション(奴隷依存型経済)が真っ向から対立していた。建前は「自由VS奴隷制」だが、実態は経済と権力争いという、どこの国でもありがちな話である。

1860年、奴隷制に反対するリンカーン2が大統領に当選すると、南部11州がブチギレて脱退、「アメリカ連合国」を作ってしまった。これをきっかけに1861年、南北戦争が開戦する。

泥沼の内戦は4年続き、1865年に北軍が勝利。国家の統一は守られた。同年、憲法修正第13条により奴隷制も公式に廃止された。なお、この時点で差別が消えたわけではなく、むしろ新しいスタイルの差別が合法化されるという「本当に進歩したのか?」案件が続く。人間ってほんと学ばない。

1-3. 世界大戦への参戦と超大国化

20世紀初頭、アメリカは国内で産業革命を達成し、すっかり金と工場の国になっていた。しかし外交では「孤立主義」を掲げ、「他人のケンカに首を突っ込むなんて面倒だ」とばかりに距離を取っていた。

だが、第一次世界大戦ではドイツの無制限潜水艦作戦3などにブチ切れて1917年に参戦。やれやれとばかりに勝利に貢献し、世界のステージに躍り出た。

さらに第二次世界大戦では、真珠湾攻撃を食らってガチギレ参戦。ナチス・ドイツと日本帝国を撃破し、戦後は核兵器を片手に「世界の警察(自称)」として名乗りを上げた。こうしてアメリカはソ連と並ぶ超大国へと駆け上がったわけだが、ここから先は冷戦という、延々と神経をすり減らす持久戦が待っていた。

1-4. 公民権運動と現代アメリカ社会の形成

第二次世界大戦後、アメリカ国内では「全員に平等な権利なんて実際あるのかよ」という疑問が噴出した。特に黒人コミュニティによる公民権運動が1950年代~60年代にかけて活発化する。

1954年、最高裁が「ブラウン対教育委員会」判決4で人種隔離を違憲と断言。しかし現実の現場では、白人コミュニティの必死すぎる抵抗により話はそう簡単には進まなかった。
1955年のモンゴメリー・バス・ボイコット、1963年のワシントン大行進と、「あの手この手の抵抗」と「それに負けない運動」が続いた。

結果として、1964年には公民権法が成立し、表向きには人種差別禁止が法律化された。その後も女性の権利、LGBTQ+の権利、移民の権利と、アメリカ社会は「永遠に未完成な理想国家」として、泥臭くアップデートを続けている。

現代アメリカは、巨大な格差と政治的分断を抱え、多様性という名のカオスにまみれた実験国家である。理想は壮大だが、現実はだいたい胃もたれしている。それでも止まらず前に進もうとするところに、ある意味でこの国のいびつな美しさがある。

まとめ

こうして見てきたように、アメリカ合衆国の歴史は決してシンプルな「成功物語」ではない。自由と平等を掲げながらも、矛盾や葛藤を抱え続け、時には激しく衝突しながら、それでも前進をやめなかった。

理想を高く掲げるのは簡単だが、それを実現するには、恥も過ちも受け止める覚悟が必要だ。アメリカという国は、その試行錯誤を今もリアルタイムで繰り返している。

次回は、そんなアメリカがどうやって国家運営を行っているのか――つまり「政治体制と社会構造」について、また一歩深く見ていこう。

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参考:

アメリカ史  上・下 紀平 英作 (編集) 

民衆のアメリカ史 上・下巻 ハワード ジン (著), 猿谷 要 (監修)

アメリカン・デモクラシーの逆説 渡辺 靖 (著)

  1. ワシントンD.C.は、州に属さない特別区であり、連邦政府の直轄地である。
  2. エイブラハム・リンカーンは、第16代アメリカ大統領で、奴隷制度廃止と国家統一を目指した指導者である。
  3. ドイツが敵味方問わず中立国の船舶にも攻撃を加える戦術であり、アメリカの参戦を決定づけた要因となった。
  4. 「ブラウン対教育委員会」は、公立学校における人種隔離を違憲と認定した歴史的最高裁判決である。

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